失われた時を求めて

Y先生との再会を夢見て

銀色のチョコレート箱

たまたまバレンタインの日に塾の授業が重なったことがあったと思う。

近くの商店街にファミリーマートがあって、チョコレートを買って、無印良品の鞄の奥に入れた。銀色の包装紙だったということを今でも覚えている。渡せず切なかった。

 

もっと前もって、例えば駅前のショッピングビルのマリエで念入りに選んだチョコレートだったら、渡せたのだろうか。

だけど、きっと受けとってもらえないだろうな。

 

友達帳というものがあって、好きな物や趣味、誕生日など書き込む手帳があった。ある日、同じ塾に通う同級生からY先生に友達帳を書いてもらうよう渡してほしいと頼まれて大変驚いたことがあった。

彼女はY先生の教え子ではなかったから、どうして先生に興味をもったかは分からないが、彼女とクラスメイト達が授業中の部屋をきゃあきゃあ覗きにきたことが一度あった。

かわいい彼女は、それほどミーハーなタイプでもなかったので、彼女のお願いに私は驚いた。

仕方がないので、頼まれたので書いてほしいと先生にお願いした。あわよくば自分の友達帳も書いてほしいと思ったが、困ると言われ受けとってもらえなかった。予想を上回る拒否反応だったと思う。

怖い気持ちも分かるが、中学生の私は大学生の大人に対して、いったいどれだけの勇気を出したのか…。少し誉めてあげたい気持ちだ。

一緒に帰ろう

中学時代に時々帰りたくなる。母も元気。先生にも恵まれ、友人たちも自分を面白がってくれるし、信頼されていた。

この頃、同級生の女の子たちはとにかく誰かに恋をしていなければならなかったような、そんな年頃だった。誰かを好きでいることに、満足していた。付き合っているようなカップルなんて、ひと学年に数組しかいなかっただろう。でも、机の引き出しの奥にしまっておくような、小さなエピソードは各々あったのかもしれない。

 

中2の冬、部活の帰りだったと思う。空は真っ暗だった。下駄箱で野球部の同級生に声をかけられた、一緒に帰ろうと。

小学生の頃から親しい彼には何ら恋心は抱いてなかったが、きっと顔は真っ赤に染まった。

彼も私に恋していたわけではないけれども、そんな言葉をかけてみたくなったのだと思う。

 

人気者だった彼とは成人式で同席して以来、会っていない。同級生の女の子から、当たり屋をやって入院しているようだという変な話も耳にしたが、家族と幸せに暮らしていてほしい。

 

 

 

 

 

ガラスの小瓶

授業後には、先生からその日勉強したトピックと、授業態度など書いた振り返りシートを受けとっていた。些細な内容で、一、二文しか書いてない。

たくさんファイルに入れて残していたが、父が私の部屋を使うようになり捨てられてしまった。

 

今手元に残っているのは一枚だけ。友人からもらった

ブルーの小瓶に入れてしまったから、取り出すのも容易ではない。破れそうだから、長年読んでいない。

「悩みながらも頑張っている様子」と書いてあったはずだ。いつもより特別なメッセージを受けとったと感じた。

勉強時間をかなり費やしていたが、数学の点数が伸びず苦しんでいた。テストの際に計算が上手く合わない。

先生もがっかりした表情を見せるから、気持ちが落ち込んでいた。自分には行きたい高校があったし、先生の笑顔が見たかった。

 

自信をもって

通ったその塾はコロナ流行が追い打ちとなり破産した。

転勤先のドイツで、yahooニュースをチェックしていて廃業を知って驚いた。

8階建ての、富山では高い建物は競売にかけられた。

教室の匂いはもう失われてしまったのだろうか。

 

匂いの記憶とは素晴らしくも恐ろしいもので、似た香りをかぎ取れば、

あの日の気持ちに戻ってしまう。

 

Y先生の教え方は上手で、何よりも熱心だった。

私が納得した様子を示すまで、白い紙を使ってあれこれ文字や図を書いて、何度も説明していた。挙げる事例も記憶に残りやすかったと思う。(ターミネーターの液体窒素の話とか)

 

私は未熟な子供だった。

消しゴムや下敷きもきちんと使えてなかった。

今も注意力散漫で、部屋の整理整頓ができない。おおざっぱで地頭も良くない。

ただ、Y先生は「できるんだから、自分に自信をもって」と言ってくれた。

その言葉はとても温かかった。

 

卑屈な性質ではなく、明るい性格と見なされ友人もわりと多かったが、

中学で授業を一度聞いても理解が遅く、運動はわりと苦手で足も早くなかった。

眼鏡をかけていて、自分の容姿が悪いこともコンプレックスだったと思う。

 

大学生のバイト講師だったY先生だが、

授業開始の10分前、15分前にきたら良いと、発破をかけた。

7階建てのビルの3階か4階に教室があった。

階段を一段飛ばしで上がって、息を切らして部屋に向かった。

「おっ、今日は早くきたぜ」と声をかけてもらうと、嬉しかった。

 

 

 

新しい先生との出会い

一年に二度見る夢がある。

中学時代のように塾でY先生に習う私。

次の授業の日を、それはそれは待ちわびていた。

 

私は両親の深い愛情に恵まれ、富山で育った。

ただ、10歳まで大阪で育ったので、人付き合いが狭く、閉塞的な地方都市に馴染めない気持ちもあった。

 

理数科目の出来が悪く、必死に勉強しないと学年順位は真ん中をやや下回る程度。

眼鏡女子で頭がいいと勘違いされることが恥ずかしく、

友人と比較して劣等感を感じていたと思う。

 

親にも勧められて、中1からテニス部の部活の後に週に一回個別指導の塾に通っていた。ただ、成績の押し上げには寄与していなかった。

 

Y先生が私の担当教師になったのは、1997年の秋か冬の入り口の頃だったと思う。

急に塾から担当講師の変更と、金曜日への曜日変換を頼まれた。

週末の塾だなんて気乗りしない。少し遅刻して行くと、

あかね指す教室に先生が待っていた。

 

最初は何を話したか覚えていない。簡単な挨拶しかしていないだろう。

夕暮れ時でオレンジ色だったことだけは覚えている。